社員の声は本当に正しいか?組織に潜む利用可能性ヒューリスティックの罠

組織の意思決定において「社員の声を大切にする」という姿勢は、近年ますます重視されています。現場の意見を取り入れることで、顧客ニーズに即した改善や、社員のモチベーション向上につながると考えられているからです。

しかし、ここには見逃せない落とし穴があります。人間は合理的に判断しているつもりでも、実際には心理的なバイアスに影響されやすい存在です。その中でも「利用可能性ヒューリスティック」という思考のクセは、組織の判断に大きな影響を与える要素の一つです。

このバイアスを理解しないまま社員の声を鵜呑みにすると、本来の目的とは逆に、偏った意思決定を下してしまう可能性があります。

利用可能性ヒューリスティックとは何か

利用可能性ヒューリスティックとは、人が意思決定をするときに「思い出しやすい情報」や「目立つ事例」を重視してしまう傾向のことを指します。たとえば、ニュースで大きく報じられた事故を見た後は、同じ事故が実際よりも頻繁に起こると錯覚してしまうことがあります。これは、実際の確率やデータではなく、印象に残った出来事が判断基準になっているためです。

組織内でも同じことが起こります。直近で大きなトラブルがあった場合、管理職は「この問題を再発させないように」と強く意識します。しかし、実際にはそのトラブルは極めて稀なケースで、むしろ他の問題のほうが発生頻度が高いことも少なくありません。にもかかわらず、印象の強い出来事ばかりに注目してしまうのです。

つまり利用可能性ヒューリスティックは、合理的に見える意思決定の裏側で、「思い出しやすさ」や「耳にしやすさ」が判断をゆがめている心理的プロセスだといえます。

組織に潜む利用可能性ヒューリスティックの典型例

社員の声を取り入れること自体は重要ですが、利用可能性ヒューリスティックの影響を受けると、特定の意見や出来事が過度に重視されてしまいます。ここでは、組織でよく見られる典型的なパターンを紹介します。

直近の失敗談が全社ルールに格上げされる

たとえば、ある部門で一度だけ起きたトラブルを受けて、経営陣が全社的な厳しいルールを導入してしまうケースがあります。実際には再発の可能性が低いにもかかわらず、「つい最近大きな問題が起きた」という印象が強いために、過剰な対策が取られてしまうのです。その結果、業務効率が落ちたり、社員の不満が増えることもあります。

声の大きい社員の意見が「多数派」と勘違いされる

会議やヒアリングで強い意見を表明する社員がいると、その声があたかも全体の意見であるかのように扱われがちです。実際には他の多くの社員が異なる考えを持っていたり、意見を控えていることもあります。しかし「耳に入りやすい声」が経営者の記憶に残りやすいため、それが組織の方向性にまで影響してしまうのです。

成功事例の過剰再現で柔軟性が失われる

成功体験もまた利用可能性ヒューリスティックの影響を受けやすい対象です。あるプロジェクトで成果を上げた方法が、他の場面でも「必ず有効だ」と思い込んでしまうことがあります。しかし環境や条件が異なれば、同じ戦略が通用するとは限りません。にもかかわらず、印象に残る成功体験に頼りすぎることで、新しい発想が生まれにくくなってしまいます。

なぜ経営者や管理職は騙されやすいのか

利用可能性ヒューリスティックは誰にでも起こるものですが、とりわけ経営者や管理職は影響を受けやすい立場にあります。その理由を探ってみましょう。

「現場感覚」という言葉に潜む甘い誘惑

経営者はよく「現場感覚を大事にする」と口にします。これは一見正しい姿勢のように思えますが、実際には「よく耳にする声」や「印象に残る出来事」に偏りやすい危険を含んでいます。現場の声を聞くことと、それを客観的に分析することは別物であるにもかかわらず、両者を混同してしまうのです。

データよりも“生の声”を信じてしまう理由

数字や統計は冷たく感じられる一方で、社員の生の声は臨場感があり説得力を持ちます。そのため、たとえデータが「大きな問題ではない」と示していても、鮮明なエピソードを聞くと「これは重大だ」と判断してしまうのです。これも利用可能性ヒューリスティックが意思決定に影響する典型的なパターンといえます。

まとめ:耳障りの良い声に惑わされない経営へ

社員の声を大切にすることは、組織にとって欠かせない取り組みです。しかし、その声が必ずしも組織全体の現実を正しく反映しているとは限りません。印象に残るエピソードや声の大きな意見が、事実よりも大きな影響力を持つことがあります。これこそが利用可能性ヒューリスティックの罠です。

経営者や管理職は、耳に入った意見をすぐに「正しい判断の材料」と見なすのではなく、データや多様な視点と組み合わせて検討する必要があります。そうすることで、一部の声に引きずられず、組織全体にとって本当に有益な意思決定が可能になります。

耳障りの良い声に流されるのではなく、聞き取りにくい声や数字の裏側にも目を向けること。これが、利用可能性ヒューリスティックに振り回されない成熟した組織への第一歩だといえるでしょう。